子育てエピソード Vol.2 娘編
愛する子供たちに、接する幸せ…。
でも、余裕がなくて、つい怒ってしまう、ダメダメママ。
子育てに、協力を頼めない夫。
今、思うと後悔だらけですが、一生懸命生きていた私。
すべて、子供たちがいてくれたからです。
たくさんの思い出を作ってくれた感謝を込めて綴ります。
今回は、娘のエピソードです。
娘の趣味、習い事
追っかけおばあちゃんの夢
初孫の娘を、恐らく私より、愛していたのではないか?
そんな、追っかけおばあちゃんは、ピアノが好きでした。
「おばあちゃんも、ピアノが好きで習っていたから、女の子ができたら、ピアノをやらせたかった…月謝は、おばあちゃんが払うから!」
という事で、娘は3歳からYAMAHA音楽教室のグループレッスンに通う事になりました。
月謝を払うのは義母でしたが、同行するのは私。
仕事の休みの日に、義母のうちの近くの教室まで、車で送り迎えをしました。
特に反対する理由もなく、電子ピアノまで義母が買ってくれたので、娘が楽しくできればいいや、程度に思っていました。
音大に入って欲しい、と義母は思っていましたが、私は、とにかく娘の意志を尊重しました。
2年程経つと、娘はピアノ教室に行く事を、嫌がるようになりました。
泣きながら、ヤダヤダ!と、言うようになったのです。
不思議に思い、娘に事情を聞きました。
「どうして、ピアノ教室行きたくないの?」
「みんな、練習ちゃんとしてきて上手なの。私、保育園に行ってて、帰るの遅いし、練習してないから、みんなの前で弾くのがイヤ!」
グループレッスンだと、どうしてもみんなの前で弾く事もあります。
他の子が、ちゃんと弾けているのに、自分が弾けないのが目立つ事を、恐れていたのです。
泣くほど、イヤなら行かなくていいと、私は思っていたのですが、義母は、かなり期待していたようで、残念がっていましたが、ピアノは止めることにしました。
自分の夢を人に押しつけて、いい結果が出るわけありませんよね。
好きな事に、まっしぐら
とにかく娘は、極端で、やる、やらないが、はっきりしていました。
学校で、いつから宿題が始まったかわからなのですが、
「宿題って出ないの?」と聞く私に
「うん、出ない」
娘は、いつもそう答えていました。
5年生になって、さすがにそろそろ出してもらわないとまずいんじゃないか?と、私は思い、ある日、保護者会の時に先生に尋ねました。
「先生、宿題はいつ頃から出るんですか?」
「おかあさん、宿題は毎日出ていますよ。ちなみに、〇〇〇ちゃんは、いつも宿題忘れた人~?って聞くと、ハイ!って元気に手を上げますよ?」
「!??」
周囲、爆笑の海…やられた~…
私がこんな事になってるのも知らずに、娘は、ドタコメ漫画を描いては、友達に見せて、人気者になっていたという事実を、後で知る事になるのです。
好きな事は、勝手に見つけてくる
グループレッスンで、挫折したピアノでしたが、しばらくして娘は、1対1のレッスンならやりたいと言い出し、YAMAHAの個人レッスンで、またピアノを再開しました。
先生とも気が合い、ピアノも自分から練習して、どんどん上手になり、発表会にも出るようになりました。
そのころ私は、パッチワークの指導員もしてましたし、趣味で洋裁もしていました。
ピアノ教室の受付の女性と仲良くなり、その女性がバレエの先生で、私にバレエ衣裳の製作を手伝って欲しいと相談され、衣裳を製作するようになりました。
彼女のレッスン教室の生徒さんの採寸をしに、娘を連れて何度も行ってるうちに、娘が、バレエをやってみたい、と言い出しました。
私も、一度でもいいからこんな衣裳を娘に着せてみたいという、軽い気持ちから、レッスンを始めさせるようになりました。
娘が、小5の時の事でした。
バレリーナになる!
ひょんなきっかけで、バレエを始めた娘は、いつのまにかバレエに夢中になりました。
そしてある日、言い出しました。
「私、プロのバレリーナになりたい!
みんなは、早く始めてるけど、私は、始めたのが遅いから、みんなより何倍もがんばらなきゃいけないの!」
まさか、こんな展開になるとは、思ってもいませんでした。
でも、娘はそれからほぼ毎日、バレエのレッスンに通うようになり、メキメキと上達していきました。
始めは、ピアノとバレエを掛け持ちしていましたが、本格的にバレエがうまくなりたいから…と、中2でピアノを止めました。
中学生になっても、学校の部活は入らず、バレエオンリーの生活になりました。
私は、仕事をしながら、送り迎えをしました。
夢は叶えてあげたい!
私は、好きな事に対しての執着心は半端じゃなく、資格取り魔でした。
好きが高じて、パッチワークの指導員になったぐらいですから。
ですから、娘の気持ちは良くわかります。
バレエは、とにかくお金がかかります。
私も、某大手のデパートの契約社員になって、働きました。
夢は叶えるもの…
少しでも可能性があるならば、私は精一杯応援するスタンスでした。
ところが、夫と意見が食い違いました。
夫の意見は、こうでした。
「お前、ホントに〇〇〇がバレリーナになれると思ってるの?
バカじゃないの?そんな簡単になれるわけないじゃん?
それに、自営で不安定なのに、そこまでお金をかけられない!」
そういえば、夫はいつもそうでした。
実の親が厳しくて、あれはダメ、これはダメ!と言われて育ってきたので、始める前にあきらめてしまうのです。
そこへ行くと私の親は、お金こそなかったものの、好きな事は何でもやらせてくれました。
その代わり、自分の行動に責任を持て!と。
実際私は、夫に無理だと言われていた、パッチワークの指導員にもなったし、大手のデパートの契約社員にも、40歳を過ぎてから合格したのです。
たとえ、娘がバレリーナになれなかったとしても、納得できるまでやらせたい!
私は、そう思いました。
輝いた日々
娘は、自分でもアルバイトをし、バレエを続け、どんどん上手くなって行きました。
舞台で踊る、キラキラした娘を観るのが本当に嬉しかったです。
発表会が行われる度に、出番も多くなり、主役を務めるようになりました。
コンクールにも出るようになりました。
先生は、すごく厳しかったのですが、絶対に止めるとは言いませんでした。
高校を卒業したら、ロシア国立のバレエ学校にも入学しました。
そのうち、チャンスが巡ってきて、先生の所属している、超有名なバレエ団に入るオーデイションも受けられるようになりました。
もう少し続ければ、プロになれる…というところで、突然娘は、バレエを止める、と言い出しました。
20歳の頃だったと思います。
理由は、自分の限界を知った事、もう納得できるところまで来た、と。
バレリーナは、プロになったからと言って、皆がそれで食べて行けるわけじゃありません。
ほとんどのプロは、講師をしたり、アルバイトをしたりで、生計を立てています。
自分の出演する公演のチケットも売らなければならないのです。
それもネックになっていたし、結婚も考え始めました。
いろいろ考えた末の決断でした。
大きな代償
とにかくバレエは、お金がかかりました。
一万円札が、千円札の感覚で出ていきました。
発表会も主役級になると、1日で¥20万以上かかりました。
トウシューズも、発表会前になると、1足¥10000ぐらいするものが、2週間でダメになりました。
コンクールに出るにも、1回¥60000ぐらいかかります。
レッスン代は別途です。
バレエ学校に行くのも、夫が自営だったため、私の名義で国民金融公庫から借りたほどです。
代償とはこの場合、お金を意味します。
その、お金の工面がとにかく大変でした…。
大変だからこそ、娘が納得行くまでやらせてあげられて良かったと思います。
あっという間に育ってる
彼氏の存在
バレエを続ける、続けないで悩んでいた頃、娘に彼氏ができました。
自然な流れなのでしょうが、結婚したいと言い出し、私の言う事より、彼氏の言う事を聞くようになりました。
彼氏の育った環境が、あまりに我が家と違ったため、よく衝突しました。
私は、お母さんの人形じゃない!
そう突然言われて、驚いた事もありました。
初めての反抗期が、訪れたのです。
振り返れば、自分もそうだったな~?仕方ないか~。
そろそろ、私の子育ても終わりかな…
ちょっと、淋しい気もしました。
自立への目覚め
この頃から、私も何となく、自分からアドバイスをしたりする事がなくなってきました。
自分の身辺が大変だったのもありますけど…。
娘は、どんどん自分で考えて行動するようになりました。
あまりにも早い自立に、なかなか子離れできない自分がいて、戸惑いもありました。
本日のまとめ
子育ては、終わったかに見えましたが、これからは、私と元夫が、反面教師となり、娘は、更に学んで行きます。
そして、必要に応じて相談してくるようになりました。
たまには私が、お説教されたりする事もあります。
以前は絶対言わない、感謝の言葉も言われるようになり、母親としては、一生懸命やってきてよかったな、と思います。
これからも、ドラマは続きます。
楽しみにしていてくださいね!